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障害者施設における虐待

社会

2015年11月26日。

公序良俗の範疇に関する認識かもしれませんね。

障害者施設における虐待の報道がなされているようです。 虐待を通報した職員に損害賠償請求がなされたとのこと。 東京新聞の記事が詳しいらしい。

アカハラについて何度かこのブログに綴りましたが、同じ面があるのかも知れません。スケープゴートの側面もあるかも知れません。つまり、よちよち歩きの概念に対して、実績を作りたいと。これは、双方に言えることでしょうね。通報すること自体が実績です。通報者の行き過ぎた面を糾弾する実績の面もあるでしょう。アカハラトラップ返り打ちの事例にも同様なところがあるでしょう。

「公序良俗の範疇に関する認識かもしれませんね」に戻りますね。一般論を述べます。個別の事例に対する解析ではありません。私は「それは公序良俗違反でしょう」ということを既に複数回述べています。私は大学教員なのでその立場からのものいいになります。実際に昨年度にも2月まで就職活動を続けている卒研生がいました。就活と卒研の両方を並行して行なっていた学生に「時間がなくて平日に研究の時間がとれなければ、休日出勤して指導しますよ」というのをやりました。今思うと、今と比較して「今でもまだ筋力の回復していない状態なのに、ようあの体幹の安定性のない状態でそれをやったな」でした。今年度は、そのような状態になった場合、私は自身の危険を顧みずにそのような対応をすることはしません、と宣言しています。

学生が困っている場合、教員は何があっても学生を助けるべきだ。私は、公序良俗の範囲内でこれを行う方針です。人によって公序良俗の範囲は異なるのが問題です。実際に「今は他の業務(自分の研究や管理業務だけでなく、他の学生の教育や研究指導にも)に支障が出るから」と対応を後回しにすることもあります。また、教員が自分自身やその家族を犠牲にして学生の困窮に対応するのにも限度があります。他の学生の不利益になるならばと主張を弱める学生は、おそらく自分が不利益を被るケースを想像しているのでしょう。ところが、教員が自身を犠牲にして自分がかまって欲しい、という学生はいます。

「何が何でも虐待の通報」ではないでしょう。虐待の通報は正義だから、それによって組織が潰れたり、過度に責任を追求される人が出ても仕方がない、というものでもないでしょう。また、組織を守るためには、虐待の通報者に「何が何でも損害賠償をさせる」でもないでしょう。また、お互いに権利の濫用に類することがあるかもしれませんね。ホイッスルブローワーが保護されるのは、真に救われるべきものを救うためでしょう。

スケープゴート的な話で終わることにします。「虐待の通報」にせよ、「損害賠償」にせよ、本当にそれを行うべきケースはあるでしょう。そうしないと、死んでしまう(生物学的に、社会的に、・・・)というのがあるんですよ。訴えのための訴えをやると、真の救いのための訴えが死んでしまう。