教育の恐ろしさと大切さ

2016年3月29日。

トピック「2016冬ドラマについてブログを書く」について

「わたしを離さないで」、教育の恐ろしさと大切さを感させる「問題作」ですね。

その前に、久しぶりに切望的に「救い」のない話だったな、というのが第一声です。

自分自身を「人に臓器を提供して人を救うために生まれてきた『天使』だ」と刷り込まれていれば、そのための死の前には天使になったかのような安らかさを持つことが可能となる。偏った宗教によって死を選択するのもそうでしょう。表面を捉えて「違う」という人はいるでしょうが、自爆テロで死んでいく人も同様なこころを持つことが可能でしょうし、特攻で死んでいく人も同様でしょう。

生まれた命はいつかは死ぬことは教えなければならないと思います。死んだら生き返らないことも教えなければならないと思います。「自分に死があることを考えられない」という人間を育ててしまっては(教育してしまっては)、いけないと思います。

世界は広くいろんな社会情勢があります。正義もそれぞれです。私は、法治社会であることを教育してきた日本は、その教育を受けた人たちがその教育で培った良心の範囲内で生きて行けるようにして欲しいと思います。政治が社会をそのようにして欲しいと思います。「スラム街へ入ったら殺されても仕方ない」「自分が殺されそうになったら、自分で命を守るもんだ」という社会にあって、そういう教育を受けてきた人が、その社会の中で”自救行為”をしても(日本では、正当防衛・緊急避難が例外なだけです)、それは受け入れるべきものだと思います。

しかし、だからと言って、教育に力があると行って、例えば、国のために死ぬことにこころの安らぎを得る人、社会(社会次第のところもあります)のために死ぬことにこころの安らぎを得る人、組織のために死ぬことにこころの安らぎを得る人、・・・この物語においては「天使だ」と言って人に臓器を提供するして死んでいく人・・・を教育によって作り出すのは-----俺は断固反対の声をあげたい。