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天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつらず

2016年1月2日。

年が明け、早くも二日目に入っていまいました。

このブログを綴り始めたときに、成人スティル病という難病を患った大学教員が「頑張っている」姿を発信し、難病等の他の方、困難を抱えた方を履けましたい、という動機を書きました。先月は、大学教員としての意見をシリーズにして述べました。それも「頑張っている」の発信の意味はありますが、主な意図はやはり意見の発信でした。

さて、私自分のこころが極めて歪んでいることを再認識しました。自分が喪主でありながら実父の一周忌を欠席したことをは既に白状しています。学生には、「そのようなこうえ心の大きな傷になるから、大学の授業の出席よりも慶弔の類を優先して欲しい。私をそのようなことに理解のある教員だと思ってくれて構わない。」と言っていることも記しました。

表題の「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつらず」は、私のこころが余りに卑屈で、自分が自身を卑下していることに気付いて、自分自身にこの言葉を掛けよう、と思ったものです。

思わず「生かしてもらってありがとうございます」のいう旨の言葉を同じ学科のある教員にもらしてしまいました。「もう、そんなことを言わないで」と返されました。以前に学科長から「親の葬式に行くのは当然のことだ」とお叱りを受けたことがあります。それよりも重症ですね。自分は、親兄弟の葬式に行くのも(そのために仕事を休む)、家族の事故や病気のために予定を変更するのも、最優先扱いにならない。そんな感覚は、卑屈そのものです。当然の「生きること」について、そんな言葉が出ること。「私、行きてもいいですか?」に等しい言葉、余りに自分を卑下しすぎています。

生きていること自体が奇跡なんです。そんな命、人生を粗末にすることは、どんなことをしても正当化できません。与えられた命に感謝。それは、命を与えてもらったことに対する感謝。「天」への感謝というようなものでしょう。天が与えられてくれた命、等しく尊い。「あなたの命は、許可を要するもの」などというのは、全くの天への冒涜のように思えてしまう。

注:天を神に置き換えると、「神が許可した命」という命題が成り立ってしまう。少し危険かな?

さて、自分が自身を卑下しているこのこころ、家族等周りにも迷惑を掛けているんです。卑屈な自分のこころ、こころの歪を緩和するために、上の言葉を自分自身への新年に際しての言葉にする。