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ハラスメントと法的安定性

2015年8月3日。

アクセス解析の結果、「アカハラ加害者です」というアクセス元が多いことが判明。

スケープゴートと題してご挨拶 佐藤信一 成城学園初等学校 桐組 | 成城学園初等学校桐組 佐藤信一からのメッセージ成城学園100周年に対してのコメントを記したからであろう。

歩き始めたばかりのアカデミックハラスメントという概念をそだてるために、些細な事でアカハラ加害者とされてしまう風潮があったことを述べた。それが今でも残っているのかもしれないという驚きとともに。

基準に満たない学生を不合格にしてアカハラで訴えられた教授が潔く職を辞した例を書いた。「悪法も法なり」ではあるが、ディプロマポリシーの解釈に対しての「法的安定性」を揺るがす事例である。付随して、昨今の社会情勢から、基準に満たない学生に対して、「アカハラで訴えられる危険性がある」と言って学位を授与してしまうことを許さない雰囲気になっていることも述べた。

法的安定性。全く的を射た言葉である。

中学の頃は、私は法治主義を軽蔑していた。法に反しても天には恥じたくないと思っていた。徳が崇高なものだと思っていた。しかし、今は「法に頼るのが現実的だ」と思っている。法治主義では、証拠主義が取られるが、違法手段によって得た証拠は不採用である。科学的にはある事実が完璧に証明できるという場合でも、証拠不採用とされることもある。以前のコメントには、時期を明記した配布物の例を挙げた。「科学的」証拠であっても、妥当性の方が優先されるということを述べたものである。その証拠には”誤字”が含まれており、その配布資料作成者の本心は悪意である、ということが妥当とされる。法的安定性を保つためのやり方でありながら、法的安定性を揺るがすやり方でもある。

そもそもが「”被害者”がハラスメントと感じたら、ハラスメントである」というハラスメント全般の判断基準がこの二面性を持っている。解釈によってハラスメントと認められたり認められなかったりではなく、"被害者"の絶対的な被害の度合いによって判断すべきなのであろう。

現在、私は成人スティル病という難病患者であって、7/297/31に書いたような支障がある。以前に足首の捻挫を押して講義を行った時の悶着があった。少々の心配があった。学生がびっこを引いている教員の足を引っ掛ける(引っ掛けるしぐさ?)をした。アカハラ加害者となったのは、暴行未遂あるいは傷害未遂の被害者の教員であった。今回も、無理難題を要求する学生から私がアカハラ加害者として訴えれられる可能性はあった訳である。学科全体で私の大学人生命を守ろうとしている雰囲気は、学生でも分かる程度のものであった。「妥当性」として、無理難題を要求する学生に私が応えられなかった場合、学生の行為が公序良俗違反で強要罪相当だということになる。いわゆる「空気」を見て・・・ということになるが、法的安定性を欠く事態である。

「”被害者”がハラスメントと感じたら、ハラスメントである」が法的安定性の観点から問題がることを社会が審らかにして欲しい。